【訃報】モーリー・ロバートソンさん死去(63歳)死因は食道がん、パートナー池田有希子さんが悲痛な報告

モーリー・ロバートソン

2026年2月1日、日本のメディアとインターネット空間に、信じがたいニュースが駆け巡りました。

国際ジャーナリスト、ミュージシャン、タレント、そしてラジオパーソナリティ。 「モーリー」の愛称で親しまれ、日米の境界線を軽やかに飛び越えてきた稀有な表現者、モーリー・ロバートソンさんが亡くなりました。63歳でした。

テレビ画面越しに見せるあのエネルギッシュな笑顔、忖度のない鋭いコメント、そして時折見せる少年のような無邪気さ。 「まだまだこれから」だと思われていた彼の突然の旅立ちに、日本中が深い悲しみに包まれています。

本記事では、公表された訃報の事実関係を整理するとともに、モーリー・ロバートソンさんが歩んだ63年間の激動の人生、そして彼が私たちに遺してくれた「知的遺産」について、前編・後編にわたり詳細に振り返ります。

突然の幕引き:公表されなかった闘病生活

パートナー・池田有希子さんの悲痛な報告

第一報は、2026年2月1日。 モーリーさんの事実婚のパートナーであり、長年公私ともに彼を支え続けてきた俳優・池田有希子さんのSNSによってもたらされました。

「心の張り裂けそうなご報告です」

その書き出しで始まった投稿には、モーリーさんが2026年1月29日の未明に息を引き取ったこと、そして死因が**「食道がん」**であったことが記されていました。

なぜ病を隠していたのか

多くのファンや関係者が驚いたのは、彼が「食道がん」という重い病と闘っていた事実を、世間に一切公表していなかった点です。

近年も『スッキリ』や『報道ステーション』などの情報番組、そして自身のYouTubeチャンネルなどで精力的に発信を続けていたモーリーさん。 頬が少しこけたように見える時期もありましたが、持ち前の早口とバイタリティあふれるトークは健在で、まさか生命の危機に瀕しているとは誰も想像していませんでした。

「同情で注目を集めることはしたくない」 「最後まで現役のジャーナリスト、表現者として、言葉の中身で勝負したい」

そんな彼なりの美学とプロ意識が、最期の最期まで病を隠し通させたのかもしれません。 病室に伏してなお、彼は社会と繋がり続けようとしたのです。

「異邦人」としての孤独な少年時代

モーリー・ロバートソンという人物を理解する上で欠かせないのが、彼の特異な生い立ちです。

日米の狭間で

1963年、アメリカ・ニューヨークで生まれたモーリーさん。 心臓専門医であるアメリカ人の父と、毎日新聞社の記者であった日本人の母を持つ彼は、幼少期から日米を行き来する生活を送りました。

広島で過ごした少年時代、彼は徹底的な「日本的教育」の洗礼を受けます。 当時の日本の学校教育は、今以上に「画一性」を重んじるものでした。集団行動、全員同じ答え、空気を読むこと。 見た目も考え方も周囲とは異なるモーリー少年は、常に「ガイジン」というレッテルと戦い、いじめや疎外感を味わいました。

著書『よくひとりぼっちだった』の中で、彼は当時の孤独を赤裸々に綴っています。 「僕はアメリカ人なのか、日本人なのか」 どちらの国にいても「完全な一員」にはなれない感覚。この時に抱いた強烈な**「アウトサイダー(部外者)」としての視点**こそが、後の彼のジャーナリズムの根幹を形成することになります。

既存のルールを疑う力。 常識を「外側」から見る力。 これらは、辛い少年時代の孤独が生んだ副産物だったのです。

日本への「復讐」と「東大・ハーバード同時合格」伝説

モーリーさんの名を一躍日本中に轟かせたのは、1981年の大学受験でした。

パンク精神で挑んだ受験戦争

高校時代、日本の教育システムに強い違和感と反発を抱いていた彼は、ある決意をします。 「このシステムを批判するなら、その頂点を極めてから捨ててやる」

それはまるで、ロックミュージシャンがギターを破壊するかのような、パンクな動機でした。彼は猛勉強の末、日本の最難関である東京大学理科一類に見事合格します。 さらに驚くべきことに、時を同じくして、アメリカの最高学府・ハーバード大学にも合格を果たしたのです。

「東大くん」ブームと、その後の決断

「東大とハーバード、両方に受かった天才少年」 メディアは彼を「東大くん」と呼び、こぞって取り上げました。しかし、世間の期待とは裏腹に、彼は東大をわずか1学期(約4ヶ月)で自主退学してしまいます。

「東大に入ることがゴールになっている空気に耐えられなかった」 「ここでは自分の求める『知』が得られないと感じた」

そう言い残し、彼はハーバード大学への進学を選びました。 手に入れた栄光をあっさりと捨て、自分の知的好奇心に従ってアメリカへ渡る。この大胆不敵な決断は、当時の日本の若者たちに強烈なインパクトを与えました。 「レールから外れることの恐ろしさ」よりも「自由であることの尊さ」を行動で示した最初の瞬間でした。

ハーバード大学へ進学し、エリート街道を歩むかと思われたモーリーさんですが、彼の魂は常に「表現」の世界にありました。 後半では、彼が日本メディア界に起こした革命と、知られざる素顔、そして最愛のパートナーとの絆について迫ります。

モーリー・ロバートソン

「J-WAVE」深夜の革命児として

1990年代、日本のラジオ界に彗星のごとく現れたモーリー・ロバートソン。彼の登場は、当時の若者にとって衝撃的な「事件」でした。

言語の壁を破壊する「モーリー・スピーク」

特に伝説として語り継がれているのが、FMラジオ局J-WAVEでの深夜番組『ACROSS THE VIEW』です。 当時のラジオDJといえば、落ち着いたトーンで曲紹介をするのが主流でした。しかし、モーリーさんは違いました。

日本語と英語を、まるで一つの言語であるかのようにミックスし、マシンガンのような速度で喋り倒すスタイル。 政治、哲学、サブカルチャー、そして過激なジョーク。それらが、深夜の電波に乗って若者たちの耳に注ぎ込まれました。 「何を言っているのか完全にはわからないけど、とにかくカッコいい」 「世界にはこんなに面白い音楽や考え方があるんだ」

彼の放送は、インターネットが普及する前の日本において、海外のリアルなカルチャーを知るための貴重な「窓」でした。彼の選曲でテクノやドラムンベースなどの電子音楽に目覚めたリスナーは数知れず、日本の音楽シーンの裏側で多大な影響を与えたと言われています。

ミュージシャンとしての矜持

彼自身も、アナログシンセサイザーを操るミュージシャンとして活動していました。 商業的なポップスに迎合することなく、実験的でアバンギャルドな音を追求する姿勢。それは、「売れるもの」よりも「本物」を届けたいという、彼の生涯変わらぬ信念の表れでもありました。

忖度なき「コメンテーター」としての覚悟

2000年代以降、活動の場をテレビの情報番組へと広げたモーリーさん。 『スッキリ』『報道ステーション』『教えて!ニュースライブ 正義のミカタ』など、多くの番組で彼が重宝された理由は、その圧倒的な「知識量」と、決して空気を読まない「誠実さ」にありました。

「なんとなく」を許さない

日本のテレビ番組では、時として「まあ、色々な意見がありますから」とお茶を濁すようなコメントが求められがちです。 しかし、モーリーさんはそれを良しとしませんでした。

「それはロジックとしておかしい」 「アメリカの視点で見ると、日本のこの議論は周回遅れだ」

日米の政治情勢、大麻合法化の議論、LGBTQなどの人権問題。 タブー視されがちなテーマにも真正面から切り込み、時には視聴者や共演者を挑発するような発言も辞しませんでした。もちろん、その過激さゆえにSNSで炎上することもありました。しかし、彼は炎上すらも「議論のきっかけ」として楽しんでいるような節がありました。

「批判されることを恐れて口をつぐむのは、ジャーナリストの死だ」 そんな彼の姿勢は、予定調和なテレビの世界において、唯一無二のスパイスとなっていたのです。

晩年に見せた「俳優」と「ゲーマー」の顔

還暦を迎えてからのモーリーさんは、さらに表現の幅を広げていきました。記憶に新しいのは、やはり俳優としての活躍でしょう。

大河ドラマでの怪演

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』。彼が演じたのは、日本を開国させたマシュー・ペリー提督でした。 歴史上の人物でありながら、どこか人間臭く、威厳と愛嬌を併せ持ったペリー像を見事に演じきり、視聴者からは「本職の俳優顔負け」「これ以上ない適役」と絶賛されました。 彼自身、「日米の架け橋となったペリーを演じることに運命を感じる」と語っており、自身のルーツと重ね合わせていたのかもしれません。

愛すべき「ドラクエ」オタク

そして、忘れてはならないのが、彼の愛らしい「オタク」な一面です。 大のゲーム好きとして知られ、特に『ドラゴンクエスト』シリーズへの愛は本物でした。 自身のYouTubeチャンネルで、少年のように目を輝かせながらゲーム実況を行ったり、SNSでレベル上げの報告をしたり。 「知の巨人」が、夜な夜なコントローラーを握りしめて冒険の旅に出ている。このギャップこそが、多くのファンに愛された理由でした。彼は常々、「ゲームは最高の教養であり、アートだ」と公言して憚りませんでした。

パートナー・池田有希子さんと歩んだ道

モーリーさんの訃報に際し、最も心を痛めているのは、間違いなくパートナーの池田有希子さんでしょう。

二人は法的な結婚手続きを行わない「事実婚」という形をとっていました。 それは、「国が決めた制度に縛られず、個人の意思で結びつく」という、彼らのリベラルで自立した考え方を象徴するものでした。

SNSやメディアで見せる二人の姿は、常に互いを尊重し、知的な刺激を与え合う、まさに「同志」のような関係性でした。 池田さんが発した「心の張り裂けそうなご報告」という言葉。 そこには、型にはまらない愛を貫き、最期まで寄り添い続けた二人にしか分からない、深くて濃密な時間の重みが込められています。

まとめ:モーリー・ロバートソンが遺したもの

63歳。早すぎる旅立ちに、喪失感は計り知れません。

しかし、モーリー・ロバートソンさんが私たちに遺してくれたものは、あまりにも大きく、そして輝いています。

  • 「常識」を疑う視点

  • 「異質なもの」を受け入れる寛容さ

  • 「自分らしく」生きることの勇気

彼は、日本社会にはびこる同調圧力に、たった一人で、しかし楽しげに立ち向かい続けた「自由の戦士」でした。 日米の文化をミックスし、私たちに新しい世界を見せてくれたモーリーさん。

きっと今頃、天国のラジオブースから、あの流暢な英語と日本語で、 「おいおい、そんなに悲しむなよ。こっちの世界もなかなか悪くないぜ?」 と、ニヤリと笑って話しかけてくれているような気がします。

ありがとう、モーリーさん。 あなたの言葉と音楽は、これからも私たちの心の中で、ファンキーなリズムを刻み続けることでしょう。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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